(2)徳川頼貞:音楽への情熱

 徳川頼倫の長男として1892(明治25)年に生まれた徳川頼貞は、幼少時から音楽に興味をいだき、学習院中等科在学時には音楽好きの仲間と合奏やピアノの基礎を学んだ。4歳年下の弟もピアノが好きで、生家に近接し、当時暮らしていた我善坊町の家では、兄弟で連弾も楽しんでいた。
 不慮の事故で弟が亡くなった1913年、徳川家の教育方針から21歳になって間もない頼貞は英国留学に旅立った。ロンドンへ向かう旅の途上、モスクワなどでオペラを鑑賞している。
 ロンドンでは、サウス・ケンジントンのベイリーズ・ホテルに投宿、ビクトリア朝の意匠をとどめるホテルは、父も拠点としていた場所であった。同行した人々の助けもあって、ケンブリッジで音楽を学ぶ環境が整えられ、ピアノ、和声、対位法、管絃楽法、音楽史らの教師がつぎつぎに決まっていった。
 音楽理論等を専門的に学ぶ中で、頼貞は建築家の知遇を得たことから音楽堂の建築に関心を持つようになった。日本には音楽専用のホールがなく、それを実現するのが自分の役目と感じ始めた頼貞は、父の許可と英国滞在中の家庭教師役でもあった小泉信三の助言をもとに早速行動を開始、ピアノや和声を師事していたエドワード・ネイラーらとも相談しつつ、設計と設置するオルガンを依頼した。
 ケンブリッジの勉学生活は、ロンドンの演奏会から彼を遠ざけた。だが休暇期間になると、「パルジファル」のロンドン初演などコンサート三昧がはじまる。しかし、第一次大戦の影響が英国での生活にも及ぶようになり、頼貞は1915年10月、英国を発ちアメリカ経由で帰国の途についた。
 その後も外国を旅するたびに、当代一流の音楽家による演奏やオペラ上演に接した。そればかりでなく、プロコフィエフ、プッチーニら多数の音楽家と交友し、日本に招へいしたり、滞日した音楽家を歓待した。徳島の収容所でドイツ人によりベートーヴェンの第九交響曲が演奏された際にはその演奏を聴いている。クライスラーが来日すると、自邸で歓迎晩餐会を開催したりもした。
 彼の音楽交友は、同時代の日本人としてはとびぬけた広がりをもっていた。その詳細は、彼自身が著した『薈庭(わいてい)楽話』(1943)や没後に刊行された『頼貞随想』(1956)に詳しい。20年前後を経て記憶を頼りに綴ったため精確さを欠く部分もあるが、自分の体験や音楽への愛を戦時下でも伝えたいという思いが込められている。
 一方、徳川家の財政状態は次第に逼迫し、昭和の初め頃から戦後にかけ、財産の処分を余儀なくされた。それでも最後まで手元に残そうとしたのが、私財を投じて収集した音楽文庫と、代々受け継いできた楽器コレクションであった。


徳川頼貞『頼貞随想』の扉ページ

頼貞と弟がピアノ連弾に用いた楽譜
[2014年4月23日 17:09]

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