【寄稿1】ハンス・アイスラーと〈ドイツ交響曲〉  和田ちはる 


アイスラーの研究者である和田ちはるさんに、その人生と作品について寄稿いただきました(プログラム誌「月刊オーケストラ」7-8月号から転載)。

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eisler-1.png◆アイスラーという作曲家

ハンス・アイスラー(1898~1962)は第一次世界大戦後の1919年からアルノルト・シェーンベルクのもとで本格的に作曲を学んだ。その学習の締めくくりとして作曲され、師に献呈された〈ピアノ・ソナタ〉作品1(1923)は、シェーンベルク・サークル内で初演され、2年後にウィーン市から芸術賞を授与されている。24年にはシェーンベルクの〈月に憑かれたピエロ〉(1912)のいわばパロディとして、初めての十二音作品〈パルムシュトレーム〉作品5が書かれ、数年後、批評家テオドール・アドルノはアイスラーを「シェーンベルクの若い世代の弟子を代表するもっともすぐれた作曲家のひとり」と評した。

こうしていわゆる「現代音楽」の領域で作曲家としてのキャリアを開始した彼は、ベルリンに転居した1920年代後半以降、専門家や音楽通のための作品よりも、むしろプロレタリアートに向けた音楽を積極的に書くようになる。政治家として活動した姉や兄の影響で、アイスラーがごく若いころから社会や政治の問題に関心を抱いていたことは、彼の創作を考えるにあたっては「シェーンベルクの弟子」であることと同じくらい重要である。この時期、労働者合唱運動に音楽面の指導者として関わった作曲家や音楽家は少なくなかったが、アイスラーはそれにはとどまらず、運動の方向性や目標について議論し、新しい方法を提案し、実践した。さらに20年代末に詩人で劇作家のベルトルト・ブレヒト(1898~1956)と出会い、共同制作を開始したことと、歌手で俳優のエルンスト・ブッシュ(1900~80)という信頼できる演奏者を得たことは、この領域における彼の活動にとって決定的な意味を持っていた。彼らは労働者のための歌曲、音楽劇、映画で、実際に大きな成功を収めた。

このような精力的な活動が直接のきっかけとなり、ヒトラーが政権を掌握した1933年以降、アイスラーは亡命を余儀なくされる。それは15年におよんだ。最初の数年間はヨーロッパを中心に活動し、38年の初めにアメリカにわたる。アメリカでの活動としては、ロックフェラー財団の助成を受けた、前衛的な作曲手法を映画音楽に応用する研究プロジェクトと、「ハリウッド歌曲集」と呼ばれる芸術歌曲群がよく知られている。

48年にアメリカを離れたあと、49年から62年に亡くなるまで、アイスラーはドイツ民主共和国(東ドイツ)に住んだ。そこで彼は国歌の作曲家として、また国際的な知名度を誇った労働者歌曲の大家として数々の栄誉を受けたが、それが結果的に、冷戦期の西側における彼の過小評価や無視につながったことは否定できない。実際には、アイスラーと東ドイツ文化当局の間の確執は決して小さなものではなく、50年代前半には深刻な衝突もあったのだ。それでも、政府公認の功労者という地位が、彼の東ドイツにおける発言や創作に例外的な自由を許したという側面はあるかもしれない。

◆「新しい」労働者音楽の模索

1920年代末から30年代前半にかけてアイスラーが書こうとしたのは、
労働者たちが聴き慣れ、歌い慣れた音楽ではなく、社会の変革を主張するにふさわしい、新しい響きと明確なメッセージを持った労働者のための歌曲である。そしてその創作は、自己満足や余暇の意味あいを強めていた旧来の労働者音楽運動、およびファシズムのプロパガンダ的な音楽実践の双方に対する理論的な批判とセットだった。アイスラーは新聞・雑誌記事、論文、対談のかたちで多くの言葉を残した作曲家なのである。彼の大衆歌ではしばしば旋法的な響きと調性の理屈が同居しており、流れの中断や唐突な終止があることも多い。戯曲の音楽にも、厳格なポリフォニーとジャズの融合、音高は定められずリズムのみが指定された合唱といった、当時の前衛音楽の要素を聴くことができる。アイスラーは、このような「新しさ」が、歌を現実逃避や単なる気分高揚の手段ではなく、現実と批判的に向き合う手段とするのだと繰り返し主張した。


日本では、作曲家林光などが、「ブレヒト・ソング」を中心に比較的早くか
らアイスラーの音楽に注目してきた。アイスラーの没後25年の折に、林が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を土台として書いた〈「ナチ」ニモマケズ〉(1987)にこんな一節がある。

    右ノ手ニハアヴァンギャルド/左ノ手ニハ労働者運動/二本のロープヲニギッテ
    ヒタスラ暗イ純音楽ト/俗ッポイダケノ労働者音楽/ドチラノ谷ヘハマルコトモナク

◆歴史の中の〈ドイツ交響曲〉

重厚で表現力に富む後期ロマン主義の交響曲が持っていた絶対音楽のいわば頂点としての地位に、シェーンベルク楽派に代表される新音楽や、映画、演劇、ラジオといった大衆的な影響力をもつ分野のための音楽が与えた衝撃は大きい。アイスラーは〈小交響曲〉作品29(1932)、〈ドイツ交響曲〉作品50(1935~39/47/58)、〈室内交響曲〉作品69(1940)の3つの交響曲を完成させた。程度の差こそあれ十二音技法が使用されたこれらの交響曲は、いずれもこのジャンルの伝統に対する異議を内包している。〈小交響曲〉の第2、第3楽章は戯曲の音楽に由来し、〈ドイツ交響曲〉は実質的には3つの器楽楽章を含む11楽章からなるカンタータであり、そして15名の演奏者のための〈室内交響曲〉はもともと映画音楽である。ここでは「交響曲」という名称そのものが皮肉なニュアンスを帯びている。

亡命中のアイスラーが、初期作品以来しばらく距離をおいてきた十二音技法を再びとりあげてコンサートのための作品創作に力を入れ始めたのは、ヒトラーが政権を掌握し、ファシズムがヨーロッパ全体に大きく影を落とし始めた1930年代半ばであった。シェーンベルクがユダヤ人であることなどを理由にナチ政権が無調や十二音技法の音楽を排したことが、この技法の使用そのものを反ファシズムの意思表示にした。さらにアイスラーは、この技法により広範な影響力を持たせ、明確な呼びかけのために用いようとした。そこで提唱されたのが、しばしば具体的なテクストを伴う、協和的でわかりやすい十二音音楽で、〈ドイツ交響曲〉はこのような文脈の上にある。アメリカ移住後の十二音の映画音楽もまた、現代音楽と聴衆の溝を埋める取り組みの一環であった。

〈ドイツ交響曲〉は編成の点でも規模においてもアイスラーの最大の作品であるが、この重厚な編成の交響曲が格調高く歌いあげるのは、力強い誓いでも栄光に満ちた勝利でもなく、ファシズムに抑圧された人々の苦悩である。これはいわゆる愛国の歌ではない。しかしやはり祖国のために書かれたとはいえるだろう。その大部分は第二次世界大戦が開戦した39年までに完成していたが、この作品が初演されたのは59年だった。初演前に戦争によるドイツの若者たちの犠牲を主題とする「エピローグ」が追加され、これによりこの作品は、より広範囲にわたるファシズムの告発となった。アイスラーという作曲家をよく知るヴァイグレと読響の演奏で、いまこの曲を日本で聴くことができる意味は大きい。

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和田ちはる(音楽学)
明治学院大学文学部芸術学科准教授。主に20世紀ドイツ音楽史を専門とし、中でもハンス・アイスラー研究に取り組んでいる。共著に「愚かでない音楽を求めて―音楽と政治、音楽と社会 ハンス・アイスラー再考」、「ブレヒト 詩とソング」がある。京芸術大学大学院音楽研究科博士後期課程(音楽学)修了。