【寄稿2】ハンス・アイスラーの《オラトリオ「ドイツのみじめさ」》 長木誠司

音楽評論家の長木誠司さんに「アイスラーの『ドイツ』」を軸に寄稿していただきました (プログラム誌「月刊オーケストラ」9月号から転載)。

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「ドイツ」性
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 アイスラーの〈ドイツ交響曲〉は、彼がドイツ共産党員として、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、蔑称ナチ)に追われていた時代、そしてヨーロッパ内での数年の亡命を経て、最終的にアメリカに落ち着いた時代の1935年に書き始められた。その一部、現在の第2、7楽章に当たる部分(それぞれブレヒト詩「強制収容所の戦士たちに」と「錫(すず)の棺に収められた扇動者の埋葬」による)は1937年のパリ万博を機に開催される国際現代音楽協会(ISCM)の音楽祭で初演されるはずであったが、《ドイツ交響曲(あるいは反ヒトラー交響曲)》の名で予告されていたこの初演は、ナチの横槍で中止されている。「ドイツの交響曲」と名付けられた作品の上演を、ドイツという国家が禁じる。それぞれが別の「ドイツ」を信じていたのだった。

 ナチが文化政策として「ドイツ」性というものをひとつのイデオロギーとして追求していたことは有名だ。それは「アーリア人種」の優位性を説くため(翻ってはユダヤ人の劣性を説くため)の疑似科学的な人種論として論じられ、ドイツ文化のアイデンティティを特徴化する言説やプレゼンテーションを通して宣伝されてもいた。人種由来の文化的優位性を誇ることは最良のプロパガンダでもあったから。そのために、美術における「大ドイツ美術展」や、それと対置されるような「頽廃美術展」が開催されたことはよく知られる事実である。音楽においても、民間主体ではあったが「頽廃音楽展」が開催され、メンデルスゾーンやマーラーのようなユダヤ人の創る音楽やシェーンベルクや、クシェネクなどの前衛的な音楽がやり玉に挙がって否定的に展示された。それに対してドイツ的な音楽とは、ベートーヴェンやブルックナーに代表されるような、古典的、男性中心的で「健全」な「ドイツ精神」を宿す音楽であった。ただ、これがどのように具体的な特徴を備えているのか、例えばモーツァルトはいかに「ドイツ的」なのか、そのことを歴史的に立証しようとナチやその御用音楽学者たちは躍起になるが、最終的な結論は出ぬうちに第三帝国は滅んでしまう。

アイスラーの「ドイツ」

 ナチの示す「ドイツ」が、そうした民族主義的なプロパガンダの上に立って優位性を誇示するための装置であったのに対し、アイスラーが〈ドイツ交響曲〉で示そうとした「ドイツ」とは何だったのだろうか?「共産主義者」アイスラーという視点から見れば、こちらもひとつのプロパガンダ、すなわちナチの示す「ドイツ」の詐称(さしょう)性を暴くためのドイツ、こちらこそ「本当のドイツ」という主張のもとに行われた対抗的なプロパガンダに過ぎなかったのだろうか? たぶん、そうでないとはけっして言えない。それは「錫の棺に収められた扇動者」という詩の詩行にも刻印されているように思われる。ここでの「扇動者」とは明らかに共産主義のリーダー、デマゴーグのことを指しているし、労働大衆による支配を訴える「扇動者」であることからもそれはうかがわれる。また、階級闘争を歌う長大な第9楽章の「労働者カンタータ」を聴いても、すぐにそれは察せられるだろう。

 しかしながら、ナチの示そうとする「ドイツ」がいかにも胸を張って自信満々、無敵を誇ろうとするギラギラとした欲望の隠せない、それゆえにこそ巨大な張りぼてのようなイメージを与えるのとは反対に、〈ドイツ交響曲〉の歌い出す「ドイツ」からは「みじめさ」が拭えない。大声で「ドイツ」を主張できない、あるいはあえてしない、どこかルサンチマンと紙一重の主張が見いだせる。アイスラーは終戦後、あらためてこの作品に《オラトリオ「ドイツのみじめさ」》というタイトルを与えようと考えたようだ。それを踏まえて再度この作品の歌詞を眺めてみると、そこには共産主義の「勝利」を感じさせるような箇所は一切ないことに気づくだろう。いわば負けっぱなしの人々への悲哀に満ちた視線が全体を覆っている。例えば、ソ連が作曲家たちに書かせた、レーニンを讃えるいくつものカンタータに出てくるような労働者の勝利宣言などどこにもない。あるのはただ、現実を前にして負け続けるみじめな「ドイツ人」たちの姿である。

「ドイツのみじめさ」
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 「ドイツのみじめさ」ということばは、もともとマルクスとエンゲルスに発するものである。1848年の2月革命前夜、亡命者の身であった両者はドイツの外から客観的に「ドイツ」(とはいえ、まだ統一前)を見ることができた。そこでは絶対的な王権がなお残り続け、市民階級の発展もいまだに中途半端で封建的な勢力に太刀打ちするまでに至っていない、それなのにすでにその内部では労働者階級も育ち始めている。しかしながら、ブルジョアジーが弱体で一人前の階級としてまだ育っていないがゆえに、その胎内のプロレタリアートも未熟児のままである。どの階級も時代と社会の矛盾を感じつつ、そこから抜け出す力を宿していない。このドイツ特有の状況をマルクスとエンゲルスは「ドイツのみじめさ」と評したのだった。そしてこの「みじめさ」はやがてふたつの世界大戦の契機となり、ナチを産んで結局は崩壊するというすべての歴史の元凶になっていく。そうしたドイツの姿こそ、ブレヒトの詩を用いてアイスラーが描こうとしたものだ。

 「おお、ドイツよ、蒼(あお)ざめた母よ/お前はなんと汚されていることか/お前のすばらしい息子たちの血で!」という歌詞で始まる交響曲は、まさに「みじめさ」の在処(ありか)を特定していよう。それは1957年にやはりブレヒト詩で作曲された〈戦争入門写真集〉からの一節をエピローグにして59年に全曲が初演されたことからも見えてくる。社会主義国家の東ドイツ(ドイツ民主共和国)も、アイスラーにとっては「ドイツのみじめさ」から脱するものではなかった。たとえこの国が彼を国家的作曲家として顕彰しようともである。

オペラ〈ヨーハン・ファウストゥス〉論争
 そのことは、ちょうどこの頃アイスラーが巻きこまれていたオペラ〈ヨーハン・ファウストゥス〉に関する論争にも現れているだろう。トーマス・マンの長編小説『ファウストゥス博士』への応答として書かれたアイスラー自身によるオペラ台本は、ファウストをドイツ農民戦争時代の農民出身の人物として描き直し、トーマス・ミュンツァーによる農民戦争に結局は荷担できず、自らの階級を裏切るブルジョア的知識人として、つまりは「ドイツのみじめさ」の端的な形象として描き出した。それは当時、やはり東ドイツにいたブレヒトたちとも連動する見方ではあったが、社会主義リアリズム下で肯定的人物を描くことを旨とする、硬直した国家的信条と合わず、相当の批判を浴びることになった。結局この作品には音楽が付けられなかった。マンの小説の主人公、作曲家のアードリアン・レーヴァーキューンは市民社会の没落とともに、その市民が拠(よ)り所にする「善にして高貴な」ベートーヴェンの第9交響曲の終焉とその欺瞞(ぎまん)性を暴くべく、それを撤回させるために最後の作品、カンタータ〈ファウストゥス博士の嘆き〉を小説内では完成させるが、まさにそれを地でゆくはずのアイスラーのオペラは完成されなかった。マンが憂い、アイスラーが念じたドイツは、トルソとして残される運命だったのだろうか。