南葵音楽文庫
南葵音楽文庫・豆知識
(1)徳川家と音楽コレクション
南葵とは、徳川御三家のうち紀州徳川家をさす。南葵音楽文庫は、紀州徳川家の第16代当主徳川頼貞(1892〜1954)が、私財を投じて設立した音楽資料のコレクションである。だが徳川家と音楽資料の収集は、頼貞に始まったわけではない。
紀州徳川家から第8代将軍となった徳川吉宗(1684〜1751)は、音楽に関しては江戸城内の管絃に琴を加えた程度のかかわりしかもたなかった。彼は息子のうち二人を城内に居住させ別家として取り立てた。そのひとつ田安徳川家初代の徳川宗武(吉宗次男、1716〜1771、松平定信の父)は、賀茂真淵らに国学、歌学を学ぶなど、音楽や服飾に関心が深かった。そこから、田安徳川家にはこの分野に多くの典籍、文書が集まるようになった。
明治時代になっても田安徳川家は多くの資料を所蔵していたが、慶應義塾が図書館の建設と蔵書の拡充を図ると3458冊を寄託した。さらに戦中戦後に何度も一部売却、寄託を繰り返した。しかしながら現在も、コレクションには雅楽、琴楽、能楽関連の資料、中国渡来の琴楽に関する資料群、また賀茂真淵らの助言のもと復古した謡本が含まれ、国が設置した国文学研究資料館(東京・立川市)に所蔵されている。
紀州徳川家の第10代藩主徳川治宝(はるとみ、1771〜1853、藩主1789〜1824)は、管轄する各地に学問所を設置、本居宣長を召し出し、松坂城下にすまわせた。松坂に由来する三井家との関係を深め、また京都の楽家、表千家を庇護するなどした。
治宝は、膨大な資金を投じて雅楽の楽器を収集した。157点に上る楽器は、そのほとんどに来歴を記した文書(証書、鑑定書など)が付されている点で貴重である。それぞれの楽器は、蒔絵を施した箱に納められているが、これは治宝自身の監修のもとに整備されたのではないかと考えられている。
家宝の中でも特に大事な奥重宝として代々伝えられこのコレクションが紀州徳川家を離れたのは1953年である。買い受けたのは後に島根県知事となる田部長右衛門であったが、彼はこれを私有せず、自らが理事長をつとめる松江博物館の所蔵とした。1972年には文化庁の所蔵となり、1983年からは国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉市)に収蔵されている。
田安徳川家から紀州徳川家に迎えられた徳川頼倫(よりみち、1872〜1925)は、1896年にケンブリッジ大学に留学し、英国滞在中は南方熊楠とともに大英博物館を見学するなど、博物館、図書館の重要さに心打たれた。帰国後ただちに古典籍の整備に着手、部分公開を経て1908年に麻布飯倉の自邸敷地内に「南葵文庫」を建てた。日本の古典籍を中心とした収集は、1921年には10万冊に及んだという。しかし、関東大震災(1923年)で建物が甚大な被害をこうむると、頼倫は蔵書を、やはり被害が大きかった東京帝国大学に寄贈し、現在は東京大学総合図書館が継承している。
蔵書のうち音楽関係の資料は、息子頼貞が「南葵楽堂」を建て、その中に図書部を開設するとそこに移管された。その図書部が、南葵音楽文庫として独自の資料収集と公開などの活動を展開する礎となった。
(2)徳川頼貞:音楽への情熱
徳川頼倫の長男として1892(明治25)年に生まれた徳川頼貞は、幼少時から音楽に興味をいだき、学習院中等科在学時には音楽好きの仲間と合奏やピアノの基礎を学んだ。4歳年下の弟もピアノが好きで、生家に近接し、当時暮らしていた我善坊町の家では、兄弟で連弾も楽しんでいた。
不慮の事故で弟が亡くなった1913年、徳川家の教育方針から21歳になって間もない頼貞は英国留学に旅立った。ロンドンへ向かう旅の途上、モスクワなどでオペラを鑑賞している。
ロンドンでは、サウス・ケンジントンのベイリーズ・ホテルに投宿、ビクトリア朝の意匠をとどめるホテルは、父も拠点としていた場所であった。同行した人々の助けもあって、ケンブリッジで音楽を学ぶ環境が整えられ、ピアノ、和声、対位法、管絃楽法、音楽史らの教師がつぎつぎに決まっていった。
音楽理論等を専門的に学ぶ中で、頼貞は建築家の知遇を得たことから音楽堂の建築に関心を持つようになった。日本には音楽専用のホールがなく、それを実現するのが自分の役目と感じ始めた頼貞は、父の許可と英国滞在中の家庭教師役でもあった小泉信三の助言をもとに早速行動を開始、ピアノや和声を師事していたエドワード・ネイラーらとも相談しつつ、設計と設置するオルガンを依頼した。
ケンブリッジの勉学生活は、ロンドンの演奏会から彼を遠ざけた。だが休暇期間になると、「パルジファル」のロンドン初演などコンサート三昧がはじまる。しかし、第一次大戦の影響が英国での生活にも及ぶようになり、頼貞は1915年10月、英国を発ちアメリカ経由で帰国の途についた。
その後も外国を旅するたびに、当代一流の音楽家による演奏やオペラ上演に接した。そればかりでなく、プロコフィエフ、プッチーニら多数の音楽家と交友し、日本に招へいしたり、滞日した音楽家を歓待した。徳島の収容所でドイツ人によりベートーヴェンの第九交響曲が演奏された際にはその演奏を聴いている。クライスラーが来日すると、自邸で歓迎晩餐会を開催したりもした。
彼の音楽交友は、同時代の日本人としてはとびぬけた広がりをもっていた。その詳細は、彼自身が著した『薈庭(わいてい)楽話』(1943)や没後に刊行された『頼貞随想』(1956)に詳しい。20年前後を経て記憶を頼りに綴ったため精確さを欠く部分もあるが、自分の体験や音楽への愛を戦時下でも伝えたいという思いが込められている。
一方、徳川家の財政状態は次第に逼迫し、昭和の初め頃から戦後にかけ、財産の処分を余儀なくされた。それでも最後まで手元に残そうとしたのが、私財を投じて収集した音楽文庫と、代々受け継いできた楽器コレクションであった。
(3)南葵楽堂とその図書部
徳川頼貞が帰国したのは1915年の年末近くであった。翌年秋になりようやく設計図が届き、17年春には実際の建築で用いられたヴォーリズによる設計図面が完成、ただちに麻布飯倉の敷地内で建築工事が始まった。工事は1年余で終わり、翌18年10月27日朝に開堂式、27、28の両日、開館記念のコンサートが開催された。
開堂の式典で、祝辞に立った大隈重信は「音楽の偉大なる力はよく神の怒を謹めて、常闇を光明の国に化した日本の神話もある」と述べ、ヴォーリズは「この建築物は単なる記念物として設立されたのでなく、教育音楽をもって精神的な何かを広く公衆に与えることにその目的がある」と語り、日本における西洋音楽普及への期待が高まった。コンサートは頼貞が好んだベートーヴェンで、最初が献堂式序曲、ついでピアノ協奏曲第5番「皇帝」、後半はカンタータ「静かな海と楽しい航海」。「皇帝」の全曲演奏はこの日が日本初、他の2曲も日本初演であった。父頼倫が「南葵文庫」を建ててから10年、同じ敷地に「南葵楽堂」が並びたった。
依頼していたオルガンが到着したのは、1920年になってからであった。日本初の本格的なパイプオルガンのために、組み立て調音する技術者を呼び寄せ、また在日英国人エドワード・ガントレットの協力があり、同年11月には披露演奏会開催にこぎつけることができた。ちなみにガントレットの妻になった山田恒は山田耕筰の姉である。耕筰は義兄にあたるガントレットから西洋音楽を学んでもいる。
南葵楽堂ではその後も、三浦環、ゴドフスキーらが演奏、オーケストラの演奏会も開催されている。
南葵楽堂は、ヴォーリズによる設計図面からその半地下部分を図書館とする計画であったことが明らかである。音楽資料の収集は頼倫が設立した南葵文庫に、大正中期になって音楽部門が設けられたのが発端であり、南葵楽堂建築に向けた地鎮祭が行われた直後の1917年5月に作成された目録では、音楽部門の蔵書は教則本や練習曲、唱歌集が目立つ。同じ5月に、ロンドンでオークションにかけられたカミングズ・コレクションの一部分を購入、また独自の収書活動も行われた。1920年1月、第一次大戦終結に伴い安全性が確保できたとの判断から輸送がはじまり、パイプオルガンに先立って1月にカミングズ・コレクションが到着、集められた楽譜や文献は、1920年10月2日から南葵楽堂において閲覧に供された。公開当初閲覧に供されたのは、カミングズ・コレクションを除き、楽譜1264冊、音楽書473冊であった。我が国における最初の公共音楽図書館の誕生である。
このとき階上ではオルガンの据え付けがまだ続いていたであろう。コンサート・ホールに設置された本格的なパイプオルガンとしては我が国初となる楽器は、音楽文庫公開から1か月半遅れたが、同年11月22日から24日まで開催された演奏会で披露された。
(4)W.H.カミングズとその時代
半地下部分に図書部を設けた南葵楽堂ではあったが、まだ蔵書は少ない。地鎮祭も終わった1917年の春、頼貞が英国から届いた音楽雑誌を繰っていると、カミングズ・コレクションがオークションにかかるという記事が目にとまった。彼は直ちに、留学時の師ネイラーを介して購入を申し入れ、474冊の入手に成功した。以来このコレクションは、今日まで南葵音楽文庫の柱となりつづけている。
ウィリアム・ヘイマン・カミングズ(1831〜1915)は、英国の音楽教育、教会音楽において重要な役割を果たした。オルガニストも歴任したが、より声楽に関心を持ち、バッハの「マタイ受難曲」演奏において何度もテノール歌手として歌い、後年は宗教音楽の指揮者としても活躍した。生涯を通じてメンデルスゾーンを敬愛し、彼自身の作品にはその影響が顕著に認められるというが、現在では演奏される機会はきわめて乏しい。
一方、音楽の研究家としては、とくにヘンリー・パーセル研究の基礎的な著作「パーセル」(1881年)によって知られている。ほかに英国国歌、ブロウ、アーンなど英国の音楽家、ヘンデルについて多数の著述を残した。
カミングズのもうひとつの業績が、古今の音楽資料の収集である。19歳の時に珍しい印刷楽譜を集め始め、50年後の1900年頃には自筆楽譜、筆写楽譜を多数ふくむコレクションの総点数は4500に達し、英国の音楽関係者に広く知られるまでになっていた。
収書の幅は音楽資料を超え、各種の聖書、典礼書や宗教関連の文献、シェイクスピアや17、18世紀の英文学、歴史書にも及ぶ。またインキュナブラと呼ばれる、グーテンベルクによる活版印刷の創始から1500年に至る約半世紀の間に出版された書物も購入していた。
カミングズの生きた時代は、ヴィクトリア朝(1837〜1901)にほぼ重なっている。彼の収集は、まずは音楽研究者としての視点から行われ、その時代の愛書趣味や収書マニア、富裕層の間で相次いだ個人図書館の設立と直接つながるものではない。しかしウィリアム・モリスらによる書物の復興やアーツ・アンド・クラフト運動の痕跡は、コレクションにも反映している。その時代に行われた造本や装幀、書物を飾る美しいマーブル紙や精巧な箔押しなど、内容の資料的価値とともに、コレクションの書物そのものがしばしば時代を体現してもいる。
カミングズは、貴重な資料をオークションなどによる散逸から守るため、1877年に国立の音楽図書館設立の必要姓を説き、その場所として大英博物館を挙げている。ところが40年後の1917年、彼が世を去ってから2年後に、そのコレクションがオークションにかけられることになった。ロット数にして1744点の競売は6日間を要した。そのうち59点がワシントンのアメリカ議会図書館に収まった。一方、徳川頼貞が入手した数は、コレクションが到着した1920年の「南葵文庫報告」には474冊と記載されている。
(5)コレクションの形成
我が国初の公共音楽図書館を構築するために、資料はどのようにして収集されたのであろうか。まずは音楽図書館の構想から開館初期まで、徳川家の音楽資料は南葵文庫の音楽部門という位置づけであった。
関東大震災により蔵書の大半が灰燼に帰してしまった東京帝国大学図書館の惨状に心を痛めた徳川頼倫は、南葵文庫蔵書の寄贈を決め、南葵文庫は東京帝国大学に移された。その際、楽譜1829冊と音楽書865冊は除外された。この南葵文庫音楽部門に由来する資料には、徳川家にそれまでに寄贈された音楽資料や頼貞自身が用いた楽譜や購入した資料が含まれている点で興味深い。
この時点で、たしかに南葵文庫音楽部門の楽譜や音楽書は、1920年10月2日に閲覧が始まった時よりも増加していた。とはいえ、まだまだ理想とはほど遠い状態であったであろう。
なお南葵文庫の帝国大学への寄贈にともない従来の名称は廃され、震災翌年に「南葵楽堂図書部」となり、1925年には「南葵音楽図書館」と改称された。
資料の増強は、震災により南葵楽堂の建築が相当の損傷を受けた中でも積極的に行われた。その結果、1929年には、整理が終わった閲覧用資料は音楽書•楽譜合計約30000冊、レコード約2500枚にまで達した。
この他、購入ないし寄贈を受けた個人蔵書として、カミングズ・コレクション(474冊)以外に、二つの重要なコレクションが加わった。
ホルマン•コレクション オランダのチェロ奏者ヨーゼフ・ホルマン(1852〜1926)の楽譜コレクションを指し、約1030点(2000冊)からなる。20世紀初頭のチェロ音楽の宝庫であり、彼に献呈された作品や、彼自身の作品も含む。
フリートレンダー•コレクション ドイツの音楽学者マックス・フリートレンダ一 (1852〜1934)の蔵書の一部。244冊からなる。
資料の購入には南葵音楽図書館の図書楽譜購入費が充てられたが、それでは賄えなくなると、徳川頼貞の私費も使われたという。南葵音楽図書館は1925年の発足時にすでに経済的には逼迫しており、1931年、図書館は閉鎖を余儀なくされ、資料購入も一旦途絶えることになった。
頼貞の招きで来日、楽器と楽譜を日本に残した
(6)南葵音楽文庫の継承
関東大震災は、南葵文庫、南葵楽堂に重大な被害をもたらした。南葵文庫は東京帝国大学(現東大)へ、楽堂に取り付けられたわが国初の本格的なパイプオルガンは東京音楽学校(現東京芸大)へ寄贈された。オルガンは、現在は台東区が管理する旧奏楽堂に残されている。南葵楽堂に併設された南葵音楽文庫は、引き続き南葵音楽事業部が管理等を行っていたものの、徳川家の財務上の問題も手伝い、活動は縮減せざるを得なかった。昭和8(1933)年、事業部は南葵音楽文庫の管理を三田の慶應義塾図書館に委託、同館の規則により閲覧に供するとすると決定した。同年3月、同文庫の25000冊(慶應側の記録による)は移管され、図書館新書庫の屋根裏全体を占めたという。戦前、戦中にあって、西洋音楽に関する資料の宝庫として貴重な存在であり続けたが、東京大空襲の翌月にあたる昭和20(1945)年4月、徳川頼貞は委託契約の解除を決断。再度の空襲にもかろうじて罹災を免れた文庫は、同年6月図書館から急遽搬出され、千葉県下の呉服店倉庫に収められた。
戦後しばらく文庫の行方がわからなくなった時期があったが、1960年代半ばにその根幹部分が無事であり、白河市(福島県)の倉庫にあることが確認された。昭和42(1967)年3月、読売新聞社主催「南葵音楽文庫特別公開」展が開催され、関連資料も含め約500点が展示された。また文庫そのものの活用も検討され、一時期ではあったが、東京・駒場の日本近代文学館において音楽研究者たちを主な対象に閲覧に供され、新たな資料の購入も行われたほか、貴重資料のマイクロフィルムが作成された。
1977年以後、南葵音楽文庫は読響に帰属、1999年までマイクロフィルムによる閲覧は国立音楽大学図書館で継続された。2006年から08年にかけ、慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構は、読響との契約のもと貴重手稿資料の高精細デジタル画像収録に着手した。また同機構はマイクロフィルムの画像のデジタル化も実施し、貴重な印刷資料の一部はすでに同大学のウェブサイトで一般公開されている。現在、読響は貴重手稿資料の高精細デジタル化を継続して実施している。
慶應義塾図書館(1912年撮影)
南葵音楽文庫はここで1933-45年に公開されていた
コレクションから
ライプツィヒの出版社C.F.ペーテルスに宛てる書簡のための下書き。新作弦楽四重奏曲が用意され、360フロリンで引き取るならすぐに楽譜を送るとしている。年代の記載はないが、内容から1825年11月25日にペーテルスに宛てた書簡の下書きで、言及している弦楽四重奏曲は、第13番変ロ長調(作品130)を指すと思われる。
(1)L.v.ベートーヴェン 自筆書簡(年代記載なし)
ライプツィヒの出版社C.F.ペーテルスに宛てる書簡のための下書き。新作弦楽四重奏曲が用意され、360フロリンで引き取るならすぐに楽譜を送るとしている。年代の記載はないが、内容から1825年11月25日にペーテルスに宛てた書簡の下書きで、言及している弦楽四重奏曲は、第13番変ロ長調(作品130)を指すと思われる。
ベートーヴェンは、この下書きの中で、ほかの四重奏曲も完成し、連作の最後の曲(第15番イ短調作品132を指すのであろう)を提案すべきか迷っている。また言い回しを考えるとともに、出来映えに対する自負心、自作への報酬が高額になっているとするアピールを織り込もうとしていた。
360フロリンとしいているのは、1822年8月にペーテルスから歌曲、行進曲、ピアノのためのバガテルの作曲依頼を受け、前渡しで支払われた報酬額である。その後出版社を納得させる作品は送られず、四重奏曲をもって充当しようとした。結局その提案は拒まれ、ベートーヴェンは翌12月に返金した。結果として、ペーテルス社からの作品出版は、生涯を通じて一度も行われなかった。
実際に送られた手紙は、作曲家の甥にあたるカールが書き、作曲家が署名した。ボンのベートーヴェン・ハウスに残されている。その、より簡潔で事務的な書簡に至る過程の作曲者の心中が、南葵音楽文庫に残る下書きから読み取れよう。
慶應義塾図書館(1912年撮影)
ベートーヴェンの自筆書簡下書き(慶應大DMC研究センター撮影)
1623年、シェイクスピアの没後7年を経て刊行された最初の劇作品全集で、36編の作品を収めている。単に「ファースト・フォリオ」と呼べばこの本を指すほど重要な出版で、現存数は限られている。南葵音楽文庫は1901年に作成されたファクシミリ版を収蔵。同版は限定1000部、番号入りの予約出版で、カミングズ旧蔵の本書は757番。
(2)シェイクスピア 喜劇・史劇・悲劇集(「ファースト・フォリオ」1623年)ファクシミリ版(1901/02)
1623年、シェイクスピアの没後7年を経て刊行された最初の劇作品全集で、36編の作品を収めている。単に「ファースト・フォリオ」と呼べばこの本を指すほど重要な出版で、現存数は限られている。南葵音楽文庫は1901年に作成されたファクシミリ版を収蔵。同版は限定1000部、番号入りの予約出版で、カミングズ旧蔵の本書は757番。
フォリオとは、全紙版を折ることを指し、最初に折れば2つ折り版、次に折れば4つ折り版、さらに折れば8つ折り版となる。したがってファースト・フォリオは2つ折り版を指すが、「ファースト・フォリオ」という呼称で、1623年出版のシェイクスピアの劇作品全集を指す。それまでほとんど手書きの写本で流通していた作品を、作家の同僚たちが、写本を選択、真作と判断した作品のみを収録した。その判断には異論も多々ある。また大きな版による印刷への技術的挑戦でもあった。
この画期的な出版物は、750部程度印刷されたと推定されている。価格は当時1ポンド(現在の価格で2ないし3万円)であった。現存が確認されているのは228部であり、オークション(2001年)における落札価格は616万ドル(約6.4億円)であった。
1901年に作成されたファクシミリ版は、監修者シドニー・リーにより1点ごとに番号とサインが記されている。購入予約者リストの中にカミングズの名前が印刷されている。なお、リーはシェイクスピアの評伝を執筆、全集の出版も行っている。
◆◆参考サイト
南葵音楽文庫所蔵の「ファースト・フォリオ」ファクシミリ版(1901/02)を閲覧する。
司祭であるとともに、音楽教育者として尊敬を集め、膨大な数の作曲と著述、そして17000冊とも言われる本の収集。モーツァルトを含め多くの音楽家の師であったマルティーニの著書を代表するのが「音楽史」(全3巻)で、1761年から81年にかけて出版された。南葵音楽文庫に伝わるのは、縦が46センチという特装版で、旧蔵者カミングズは、王室に献上するために特別に作られた版であろうというメモを書き込んでいる。
(3)G.B.マルティーニ 音楽史(全3巻) ボローニャ、1761-81年
司祭であるとともに、音楽教育者として尊敬を集め、膨大な数の作曲と著述、そして17000冊とも言われる本の収集。モーツァルトを含め多くの音楽家の師であったジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ(1706〜1784)の著書を代表するのが「音楽史」(全3巻)で、1761年から81年にかけて出版された。南葵音楽文庫に伝わるのは、縦が46センチという特装版で、旧蔵者カミングズは、王室に献上するために特別に作られた版であろうというメモを書き込んでいる。彼は、半分の大きさの、ただし本文を囲む装飾がない通常の版も所有していたので、この特装版の由来を考えたのであろう。
第1巻には、タイトルページにこの著作がポルトガル王女でスペイン王妃マリーア・バルバラに献じられていると明記されている。スカルラッティが鍵盤演奏を教え、多数のソナタを書いたのは、彼女のためであった。なお、第1巻には1757年と記されているが、実際には1761年になってから刊行されたと考えられている。彼女の死(1758年)が関係しているのかもしれない。
この「音楽史」は、全5巻の予定で、第3巻までは旧約時代からギリシアにいたる音楽に捧げられている。第4巻以後は結局刊行されなかった.第1巻は約500ページ、以後もそれに近い大部の著作であり、多くの挿絵や図版も織り込まれている。
マルティーニの休むことのない仕事は、ほとんどの生涯を過ごしたボローニャで行われ、多くの音楽家がボローニャに彼を訪ねた。モーツァルトは20歳の時に、「この世で誰よりも愛し、崇拝し、尊敬もしている人物から遠く離れているのは悲しい」と書いている。そして、比較的保守的なスタイルで書いた作品を、マルティーニのもとに送ったのだった。
◆参考サイト
南葵音楽文庫所蔵本は3巻とも閲覧できます。
マルティーニ「音楽史」: 第1巻(1757/1761) 第2巻(1770) 第3巻(1781)
『イタリア古典歌曲集』に収められた《いとしい人よ(カロ・ミオ・ベン)》の原曲(もとは弦楽器と通奏低音の伴奏)を含むトンマーゾ・ジョルダーニの楽譜9点(声楽曲8点、ヴァイオリン・ソナタ集1点)と署名入りの領収書2点をまとめて1冊に製本している。ピアノ伴奏で知られた作品の本来の姿を今に伝える点で貴重な資料である。
(4)T・ジョルダーニ作品集 ロンドン、年号なし
アレッサンドロ・パリゾッティ(1853-1913)編纂の『イタリア古典歌曲集』に収められた《いとしい人よ(カロ・ミオ・ベン)》を歌ったり聴いたりしたことのある方は多いのではないだろうか。パリゾッティは、この曲の作曲者をジュゼッペ・ジョルダーニ(1751-1798)と記しているが、現在では、研究の進展により、トンマーゾ・ジョルダーニ(1733ごろ-1806)の作曲とする説が有力となっている(名字は同じであるが、この二人に血縁関係はない)。本資料は、ロンドンで出版されたトンマーゾ・ジョルダーニの楽譜9点(声楽曲8点、ヴァイオリン・ソナタ集1点)とトンマーゾ・ジョルダーニの署名入りの領収書2点をまとめて1冊に製本したものである。そのなかには《いとしい人よ》の楽譜も含まれている。今日、パリゾッティが付けたロマン派風のピアノ伴奏で親しまれているこの曲も、本資料に見られるように、もとは弦楽器と通奏低音の伴奏で演奏されるオペラ・アリア風の古典派音楽であった。
トンマーゾ・ジョルダーニは、ナポリないしその近郊で生まれたとされる。ジョルダーニ家は、トンマーゾの父ジュゼッペ(《いとしい人よ》の作曲者とされたジュゼッペ・ジョルダーニとは別人)を座長とする旅回りのオペラ一座として、1745年頃にナポリを離れて以来、ヨーロッパ各地を公演し、1753年にイギリスに渡ってからはロンドンとダブリンを拠点に活動を展開した。当時、イギリスではオペラが熱狂的な人気を博しており、多くの劇場や作曲家が激しい競争を繰り広げるなか、ジョルダーニの一座も様々な作品を上演し、その中のいくつかでは好評を得た。特に評判の高い曲は様々な楽器編成に編曲されて出版され、そうした楽譜を収集した結果が、このような作品集になったわけである。なお、この楽譜に基づく《いとしい人よ》の演奏は、2009年2月1日に東京で行われた。
◆参考サイト
南葵音楽文庫所蔵本は3巻とも閲覧できます。
マルティーニ「音楽史」: 第1巻(1757/1761) 第2巻(1770) 第3巻(1781)
ベートーヴェン演奏の権威として知られる指揮者フェーリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)は同時に作曲・編曲活動も旺盛で、指揮と作曲の両面における成功を強く望んでいたという。《日本の歌》は9曲からなる歌曲集で、大津皇子、僧正遍昭、和泉式部、静御前らの和歌の独訳等が用いられている。
(5)F・ヴァインガルトナー《日本の歌》(Op.45) ニューヨーク、1908
9曲からなる歌曲集。大津皇子、僧正遍昭、和泉式部、静御前らの和歌の独訳(パウル・エンデルリンク Paul Enderling 『日本の小説と詩 Japanische Novellen und Gedichte』(P. Reclam))およびエドワード・オクセンフォードの英訳をテクストにして、各曲はそれぞれ固有の旋法で作曲されている。音楽におけるジャポニズムの一例として、「日本的な」表現を考える上で興味深い作品であろう。
作曲者のフェーリクス・ヴァインガルトナー(1863-1942)は、ベートーヴェン演奏の権威として知られる指揮者であるが、同時に作曲・編曲活動も旺盛で、指揮と作曲の両面における成功を強く望んでいたという。彼は日本の文化に強い関心を抱いており、本作品のほかにも、歌舞伎『菅原伝授手習鑑』の寺子屋の段に基づくオペラ《村の学校 Die Dorfschule》(Op. 64 1920年)など、日本の文学や風物にインスピレーションを受けて作曲した作品を数点残している。
ヴァインガルトナーが初めて日本を訪れたのは1937年5月7日。世界屈指の名指揮者の来日は、当時日本の音楽界の一大センセーションであった。2か月にわたる滞在期間中に、夫人で指揮の弟子でもあったカルメン・シュトゥーダとともに新交響楽団(現・NHK交響楽団)を率いて国内各地で公演し、好評を博した。またこの時、「ワインガルトナー賞」を設けて日本人の作曲による管弦楽曲を募集。入選した箕作秋吉、大木正夫、早坂文雄、尾高尚忠らは戦中、戦後の日本の音楽を牽引する作曲家となっていった。
本作品《日本の歌》(Op.45)はブライトコプフ&ヘルテルのニューヨーク支社から1908年に出版された。つまり初来日より30年近く前に書かれた作品ということになる。南葵音楽文庫所蔵の出版譜は、五線譜を和紙に印刷して和綴じで製本した豪奢な装丁であり、タイトル・ページにはヴァインガルトナー直筆のサインが入っている。楽譜の表紙には邦題「日本の歌」とともに菊花紋章が付いており、また所蔵ナンバー(南葵音楽文庫所蔵本は9番)もあることから、小部数の限定版であったと考えられる。本楽譜による演奏は、2008年1月20日東京で行われた。
◆◆参考サイト
南葵音楽文庫所蔵のヴァインガルトナー:《日本の歌》を閲覧する。