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昨日16日、常任指揮者シルヴァン・カンブルランのマーラー「悲劇的」の1日目が東京芸術劇場で行われました。この演奏会にご来場いただいた、音楽評論家の澤谷夏樹さんに、独自の視点で読み解いたレポートをご寄稿いただきました。
 
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整った世界に響く、たがの外れた独り言 ― カンブルランのマーラー《第6交響曲》 (澤谷夏樹/音楽評論)
 
 ドキュメンタリー映画を観る。題材は興味深いはずなのに、どこか白々しい感じがする。そういうときは間違いなく(ヤラセとは言わないまでも)誇張された映像や音声が流れている。そんな演出過剰な監督の思いとは裏腹に、冷静で克明な描写の方が対象の個性は際立つものだ。
 
 16日、東京芸術劇場でマーラーの《交響曲第6番》を振ったシルヴァン・カンブルランは、その意味で「名ドキュメンタリー映画監督」だった。
 この作品は交響曲史上、際立って様子のおかしい曲だ。たとえばマーラーは、ソナタ形式の展開部で主題をさまざまに変化させる書法を反故にしてしまった。具体的には、第1楽章の中程に突然カウベルが鳴る牧歌的なエピソードを挟み、主題の変化の流れを分断する。一方、第4楽章では主題を展開するそぶりを見せるが、それを鈍い木槌の音で2度もご破算にする。各楽章・各パートの楽想もまちまちで、おのおのに異なる言語で独り言を叫ぶような場面にたびたび遭遇する。
 
DSC8792aoyagi.jpg こうしたシーンをどう描くかに「ドキュメンタリー監督」の実力があらわれる。カンブルランは手抜かりなく「音の下ごしらえ」をすることで、この曲の尋常ならざる様子を浮き彫りにした。「音の下ごしらえ」とは、ヴィオラやホルンが和声の埋め草として働いたり、弦楽パートがアルペジオなどで下地作りに専念したりすることだ。カンブルランにかかると、この「下ごしらえ」がどこかに埋没したりしないし、かといって前景にしゃしゃり出たりもしない。熱狂に任せ、声の大きな一部の独り言で場面全体を塗り込める、といったことがないのだ。
 
 冷静な視点、精緻なバランス感覚に支えられた「音の下ごしらえ」は、《第6交響曲》のなかに「整った世界」を作り上げる。そんな「整った世界」を背景に置くと、この曲の「たがの外れた」様子が一層はっきりと見えるようになる。
 第1楽章を聴いてそのことに気付いてから、ぞくぞくした気分が止まらなくなった。整っているように見えるこの世界も、たがの外れた独り言の束に過ぎない。そんな世界の秘密を暴いた点を指して「悲劇的」と呼ぶのならば、この副題も悪くない。
 
 こうした功績をカンブルランひとりに帰するつもりはない。指揮者の優れたアイデアに形を与えるのはオーケストラだ。高度すぎるほどに高度なカンブルランの要求を、あのように現実化した読響。指揮者とともに積み重ねたたくさんの名演、とりわけストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》での成果が、《第6交響曲》の演奏に力を与えていた。新コンサート・マスターとなるダニエル・ゲーデのリーダーシップに楽団の新しい響きを聴いた向きもあろう。カンブルランと読響、両者の蜜月は、装いを新たにしつつまだまだ続いていく。
 
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明日18日(月)と19日(火)19時から、同プログラムのサントリーホール公演を開催します。残券は、18日公演が約50枚、19日公演が約100枚となっております。
当日券は18時から販売いたします。皆様のご来場、お待ちしております。