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1月14日(火)の定期演奏会では、常任指揮者シルヴァン・カンブルランのタクトで、ベリオ作曲の「フォルマツィオーニ」を披露します。この演奏頻度の低い珍しい作品について、音楽評論家の鈴木淳史さんにご寄稿いただきました。
 
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カンブルラン指揮ベリオ「フォルマツィオーニ」への期待 (鈴木淳史/音楽評論家)
 
 生演奏だけが音楽であって、録音は単なる代替物である。などということは演奏会に通い詰めている人にとっては無理からぬ道理であって、それでも録音ならではの良さもあるのだよ、と大人びた顔付きで言ったりするものなのだけど、それでも世の中にはその場に居合わせないと、とてもとても聴いた気にはなれぬ、という作品もある。
201401102.jpgのサムネール画像 
 ルチアーノ・ベリオの「フォルマツィオーニ」も、その一つだと思う。この曲の特徴は、ステージ上のそれぞれの楽器の配置がまったくユニークなことだ。中央は木管(舞台下手に配置される木管グループも)、金管も左右のグループに分かれ、打楽器も舞台をぐるり囲むように5群に分かれて配置されるといったように。これまで聴いたことがない音響を目指した作品ということはわかる、のだけれど……。
 
 ベリオには、掴み所のない作曲家という印象を持っていたことがあった。代表作の「シンフォニア」、その第3楽章のように、既成作品のコラージュによってシンフォニーというシステムに揺さぶりをかけたかと思えば、「フォークソングス」のような耳馴染みのいい声楽曲もあり、劇音楽や電子音楽の分野にも顔を出す。
 コンセプトを大事にする作曲家なのかなと思ったまま、演奏会場に駆けつけると、そのエピキュリアンな音楽に驚かされたことも。そのあたり、時代が変わってもイタリアの作曲家。聴衆に観念を押しつけて放り出すことは絶対にしない。
 
 この曲は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の90周年記念委嘱作品として、リッカルド・シャイーの指揮で1987年に初演された。その後10年間演奏はなく、1997年に再演に漕ぎ着けたその人こそ、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団を指揮したカンブルランなのだった。以降、ベルティーニ、ティルソン・トーマス、サラステ、シュテンツ、ノセダなどの指揮者によって取り上げられている。2004年には、尾高忠明指揮東京芸大オーケストラによって日本初演された。
 
 かつて初演者によるスタジオ録音がリリースされていたが、正直わたしはこの作品にとくに興味を覚えていたわけではない。作曲家がやりたいことは薄々わかるにしても、それが実際にどのような聴覚的な効果があるのかが、残された録音からはさほど伝わってこず、妙にもどかしい気持ちになってしまう。
 今回、カンブルランがこの作品を取り上げるにあたって、ではカンブルランならばどのように演奏するのであろうと想像を巡らせつつ、この録音を聴き直してみた。
 
_DSC7454.jpg 呼び交わされ、受け渡され、広がっていく音。そして、渦を巻くような木管。これらが、サントリーホールではどのように響くのであろう。昨年カンブルランが演奏したウストヴォーリスカヤ作品が、決して暴力的にならず、優しさやユーモアを帯びてホールのすみずみを満たした記憶を呼び起こしながら。
 
 現代音楽に付き物である不協和音をこれ見よがしに荒々しく表現する時代は終わった。最近は、サイモン・ラトルのようにこうした響きを丁寧に扱い、それこそが美しさの極みと言わんばかりにしっとりと聴き手を包み込むのが主流になりつつある。
 そのラトルと並んで、そうした響きを作り出す第一人者がカンブルランだ。さらに、彼の常任指揮者就任によって、音色がケタ違いに増え、しなやかさが加わった読響。これは格別に期待できる。
 
 シャイーの録音をカンブルランの演奏を想像しながら聴いていると、妙に興奮してきた。当日は問答無用で駆けつけなければならない気持ちが高まる。こうした作品を良質な解釈で聴けるチャンスなんて、そう人生で何度もあることではないのだから。
 
 しかも、この日の「フォルマツィオーニ」は、三つの楽器群によって演奏されるガブリエリ作品とセットで演奏される。バロックと現代作品の響きはどのように交差するのか。そして、後半はカンブルランお得意のベルリオーズ。
 一見して、地味そうなプログラムだ。しかし、このようなプログラムのときにこそ、カンブルラン&読響の本領が発揮され、聴き手にも大きな発見をもたらしてくれることは間違いない。個人的には、今年前半を代表する伝説じみた演奏会になるような気がしてならないのだが……。