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[読響との9年の軌跡]カンブルランのインタビューを掲載

シルヴァン・カンブルランは、今月で2010年4月から9年間務めた読響常任指揮者の任期を終えます。昨秋、2時間にわたってインタビューを行い、読響との9年間のこと、今後の抱負などを語っていただきました。なお、このインタビューは、プログラム誌『月刊オーケストラ』3月号の特集記事を転載したものです(聞き手:事務局)。 

cambre3.jpg__常任指揮者の退任が近づいています。今はどのような心境ですか?

就任した2010年を振り返ると、随分昔のことに感じると同時に、つい最近のことのように鮮明な記憶も蘇ります。常任指揮者の依頼を頂いた08年頃は、私がパリ・オペラ座との5年の契約を終える時期。当時、総裁のジェラール・モルティエ氏と共に、面白いプロダクションを作っていましたが、残念ながら楽団や批評家と上手くいきませんでした。一方、南西ドイツ放送SWR響との良好な関係を築いていました。そんな時に日本に来ることが決まりました。以来、今までひたすらに、先のことだけを見続けて取り組んできました。

__2010年はマエストロが61歳の時。アジアでの初めてのポストでした。

当時、私は母国フランスでのキャリアを辞めようと思っていました。1981年から王立モネ劇場で音楽監督を務め、米国やドイツでも指揮しました。アジアに初めて来たのは79年、リヨン国立管とのツアーで、セルジュ・ボド氏のアシスタントとして来日したのです。その後、06年に久々に来日し、読響に客演。その初共演が非常に良い感触でした。読響から常任の話が来た時、モルティエ氏に相談しましたら、「冒険心の強いシルヴァン、日本へ行くべき。新たな世界で新しい経験を積むべきだ」と強く薦められ、私は決心しました。不安はなかったです。

__10年の就任から最初の2~3シーズンを振り返っていただけますか?

読響には、常に高いポテンシャルを持つ楽団という印象があり、もっと良くなると感じていました。一方で、古いスタイルを変えるのに苦労していた楽団員も一部にいました。しかし演奏を通して、少しずつ良くなりました。最初の3年は、変化を追求した時期で、読響が向上するために、長いスパンで何をすべきかを考えました。楽しい挑戦でした。また、お客様の好奇心を掻き立てる選曲も心がけました。2シーズン目の11年9月、重要な作品であるベルリオーズ〈ロミオとジュリエット〉で大きな成功を収め、私たちに自信が付きました。12年8月、原爆忌の広島・長崎公演も印象深いもの。自分の内面と向かい、精神が浄化されるような特別な公演となり、俳優・吉川晃司氏の朗読に楽団員や合唱団の皆で涙しました。

__11年3月の震災後、マエストロは予定を早めて4月に来日してくれました。

当たり前のことをしただけです。当時、原発を恐れて来日に反対した人も周囲にいましたが、弟でティンパニ奏者のブノワが「シルヴァンにとって読響は、子どもや家族のような存在なのだから一緒にいるべき」と説得してくれました。私にとって読響はすでに生活の一部でしたので、迷わず来日しました。多くを学んだ時期で、日本人の災害に向き合う姿勢や謙虚さに心打たれました。今でも感情が揺さぶられます。人間が辛いことに直面した時に、どのようにそれを克服するのか、そして自分には何かできるのかと考えました。

__「変化」の時期を経て、次の段階へと進みます。

12年10月、現代作曲家であるツェンダーと細川俊夫作品による演奏会がポイントとなり、第2期へ。13年3月にはマーラー〈悲劇的〉で手ごたえを感じ、読響との絆が深まりました。13年9月に行ったブリテン、ウストヴォーリスカヤ、ストラヴィンスキーのプログラムも記憶に残っています。ブリテン〈シンフォニア・ダ・レクイエム〉を演奏後、当時ソロ・チェロの毛利伯郎さんが近寄ってきて、「この曲の魅力を発見し、強く感動した」と語ってくれました。13年9月、2度目のストラヴィンスキー〈春の祭典〉では、この3年の成長が実感できました。

しかし、悲しいことが起こりました。人生を共に歩んできたモルティエ氏の死です。彼は13年12月まで元気でしたが、翌1月、病気で体調を崩しました。そんな中、私は来日してソロ・ヴィオラの鈴木康浩さんとベルリオーズ〈イタリアのハロルド〉などを演奏。精神的にも厳しかったですが、どうにか自分を奮い立たせました。そして、14年3月にモルティエ氏が亡くなりました。翌4月に来日し、マーラー第4番などを演奏しましたが、私はまだ深い悲しみの中にいました。

cambre2.jpg__15年3月には欧州ツアーに行き、9月のワーグナー〈トリスタンとイゾルデ〉へと向かいます。

欧州ツアーでは、特にワルシャワ公演が印象深かったです。聴衆の温かさ、素晴らしさは忘れられません。アイヴズとドヴォルザークを組み合わせた試みに熱心に耳を傾けてくれました。そして、9月の〈トリスタン〉へ。読響とは初めてのオペラ作品でしたが、楽団員の集中力も高く、大きな成功を収めました。15年からブルックナーにも取り組み、マーラー〈夜の歌〉も演奏するなど、大きな編成の作品が増えましたが、これらの大曲でも高い質を保てました。その秘訣は、大曲においても室内楽的なアンサンブルを確立していたことです。ハイドンやベートーヴェンなどを演奏することを通して、読響がそれを習得していました。

この12年10月以降の第2期は、古典から現代作品まで、様々なスタイルの作品で忠実に音楽作りをし、その経験が積み重なってきた時期。細部への取り組みを大切にし、深めていきました。優秀な新団員の加入も力になりました。〈トリスタン〉の成功後、すぐにメシアン〈アッシジの聖フランチェスコ〉を行うことを決断。この大作を成功に導けると確信できたのです。

__いよいよメシアン〈アッシジ〉へ向けての第3期になります。

手ごたえを感じたのは、17年1月のメシアン〈彼方の閃光〉。なぜなら〈閃光〉の音楽は、〈アッシジ〉の要素を含んでいたからです。4月のバルトーク〈青ひげ公の城〉も、難しい作品ですが良い出来でした。さらに読響は10月に新国立劇場主催のワーグナー〈神々の黄昏〉への出演などを通して、長時間の演奏でも集中力を保つ力を備えていました。〈アッシジ〉の成功の秘訣の一つは、リハーサル時間の組み方。この大作を演奏するには、十分な練習が必要だということを、事務局が理解してくれました。そして何より大きな要因は、皆がそれぞれの最善を尽くしてくれたこと。分奏から始まって、オーケストラ練習、合唱や歌手リハーサル、全体練習と、全てが成功に向かって一丸となって動きました。私にとっては五つ目の〈アッシジ〉のプロダクションでしたが、その中でベストの演奏でした。

__マエストロの人生の中で、読響とはどんな存在でしょうか?

私の人生における大きな贈り物であり、私の「今」の姿を表す存在です。読響とは100%信頼を委ねられる関係が築けました。今は、私のあらゆる音作りに、皆が全力で応えようとしています。そうさせたのは「愛」。9年間、音楽の楽しさ、音楽から得られる充実感を共有できたことは嬉しい限りです。今後も形を変えて関係が続くのを楽しみにしています。

私の人生は、モルティエ氏の死で変化しました。今、私には音楽こそが、自分の精神を高めるのに重要なのです。今後の人生も全てを音楽に捧げ、音楽を通して接する音楽家、聴衆、関係者に、私の全てを音楽に込められればと思います。今後のハンブルク響でも読響と培ったことを活かします。もう私は若くないので、目の前のことを一つずつ大切に取り組むつもりです。音楽で世界は変えられません。しかし、音楽なくして世界は良くならないと思います。だからこそ、これからも音楽で希望を持たせられたら嬉しいです。

__最後に日本のお客様にメッセージをお願いします。

この9年間、来日することが毎回楽しみでした。楽団員に会うことと同様、お客様に会うことを心待ちにしていました。珍しい曲目の時も、期待を胸に会場に来てくれました。お客様から温かな拍手やブラボーの声を頂いた時は、本当に嬉しかった。常任指揮者を退任することに悲しさを感じないのは、またお客様にお会いできるからです。決してお別れではありません。今後も音楽を共有していきましょう。