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作曲家・一柳慧に聞く 20〜21世紀のアメリカ・ロシアの現代音楽

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1月15日の《第594回定期演奏会》でアメリカとロシアの現代音楽を取り上げることにちなみ、アメリカに留学されて作曲家たちと交流のあった一柳慧先生に、現代音楽の潮流や本公演で取り上げる曲目の印象などについてお話を伺いました。【取材・文=オヤマダアツシ(音楽ライター)】


音楽と人柄が一致していたフェルドマン

__今回の《定期演奏会》では、アメリカの作曲家が二人、旧ソビエト出身の作曲家が二人取り上げられます。
 今日の音楽をバランス良く配した選曲で、曲名も面白そうな作品が並んでいますし、指揮をする下野さんの意欲も伝わってきます。読響もずいぶん豪快なことをされるなと思いました。(笑)

__4人の中で一柳先生ともっとも関係が深いのは、ジョン・ケージの一派として頭角を現したモートン・フェルドマンですが、渡米された際(1952〜61年)に交流していらっしゃいますね。
 ケージの音楽と本格的に向き合ったのは1957年でしたが、当時すでにフェルドマンはそのサークルにおりましたから彼とも会っていますし、ケージほどではありませんでしたが演奏会でもたくさん共演しています。彼は1926年生まれで、1912年生まれのケージより若かったけれど、図形楽譜を考案して使いこなしていましたし、ケージもかなり影響を受けていました。それ以前にもヘンリー・カウエルという作曲家が、ピアノの内部奏法を含む実験的な作曲技法を取り入れていましたので、そうした前衛的な音楽のスクール(流派)が形成されていたのでしょう。面白かったのはそうした人たちが、東洋的と言ってしまっていいのかわかりませんけれど、とても自由な感性で音楽を捉えていて、ヨーロッパ音楽との差を感じたものです。

__フェルドマンは、写真で見る限りかなり独特な雰囲気をかもし出していて、じっくりと腰を据えて何かを追求するようなタイプにも思えますが、実際にはいかがでしたか。
 彼の容姿と音楽は、完全に一致すると思います。つまり、彼の音楽はとても静かで時間が止まるような感覚をおぼえますが、話し声もずいぶん小さくて動作もゆっくりなのです。極度の近眼で分厚い眼鏡をかけていましたが、そのせいで楽譜をこんな具合に(と、顔をかなり楽譜に近づける)見ていましたし、ピアノを弾いているときも顔と楽譜の距離が近いため大きな音で弾けないのです。それに近眼だと日常的な動作も慎重になりますから、動きが遅くなりますね。まさに、彼の音楽そのものなのです。

__今回演奏される〈On Time and the Instrumental Factor〉(1969年)という曲も楽譜を見ると音数が少ない作品ですが、図形による部分はまったくなく、晩年まで続く点描風の作風へと転換した時期の作品です。
 音と静けさによる音楽ですが、東洋的な「間」も感じられますね。静かだからこそお客様は一生懸命に聴きとろうとするでしょうが、ドイツのオーケストラなどはそれが理解できないのか、自分が音を出さないところでこっそりビールを飲んでいるのを目撃したこともありました。フェルドマンは図形楽譜の創始者ではありますけれど、実は五線譜と付かず離れずの状態を保っていて、その代わり小節線を取り去った楽譜が多かったと思います。時間を自由に解放するような狙いがあったのかもしれません。

__一柳先生は、フェルドマンから直接的な影響を受けましたか。
 私の曲はあんなに静かではありませんけれど(笑)、図形楽譜に関しては当時から多大な影響を受けました。音楽に対する考え方や姿勢がとても謙虚で、亡くなるまでそれを崩さずに生きたというところに感銘を受けています。一人の音楽家として立派なことであり、私もそうありたいと思っています。


新しい音楽と作曲技法を求めて渡米

__渡米される前後、1950年代の日本の音楽シーンについてお聞かせください。日本を発たれたのは1952年ですが、その当時ケージの名前は知られていましたか。
 あくまでも私個人の記憶でお答えいたしますが、あまり知られてはいませんでしたし、私自身も知らなかったと記憶しています。12歳のとき(1945年)に戦争が終わってから右も左もわからないような状況でしたし、当時はまだピアノを弾いているというだけで白い目で見られたような時代です。外国からの新しい情報も入ってきませんでした。アメリカの音楽として知られていたのは、アーロン・コープランドに代表される大衆的な音楽だったと思います。ただ、戦後すぐにフランスではピエール・ブーレーズが先鋭的な作品を発表し、十二音やセリー(音列)技法などが最先端だと捉えられていました。若い世代はそうした作品を未来への旗印のように考えていたのです。

__そのせいでもあるのでしょうが、当時はパリへ留学した方も多く、1950〜60年代はフランス近現代音楽の香りが日本へ持ち込まれた時期でもありました。
 私は原智恵子さんという方にピアノを習っていたのですが、彼女はフランスで勉強をされた方なので、新しい音楽の楽譜を見せていただいたり、レコードを聴かせてくださいましたから、ずいぶん勉強になりました。

__そうした中、一柳先生はなぜ留学先にアメリカを選ばれたのでしょう。
 当時パリへ留学するには、1年にたった一人だけという国費留学の枠を作曲家も演奏家も争っていましたから、そこに入るのは本当に難しかったのです。それに私は、黛敏郎さんなどもそうでしたが(アメリカの)進駐軍に出入りしてピアノを弾いていましたので、アメリカへ渡る道筋がありました。とにかく日本にいても情報が入ってきませんし、まだ東京芸大の附属高校もありませんでしたので勉強するところもなく(創設は1954年)、新しいことを学ぶには国外へ出なければいけなかったのです。

__話は逸れますが、その時代、ソビエトの音楽は日本にたくさん入っていたのでしょうか。
 どうでしたか、私がさほど興味を抱かなかったせいもあるのでしょうが、ショスタコーヴィチやプロコフィエフくらいしか印象に残っていません。ピアノを弾いていると、特にプロコフィエフの曲は自分で演奏することもありましたので。なにしろソビエトは終戦間際(1945年8月)に不可侵条約を破って宣戦布告し、いきなり敵国となってしまったわけですから、感情的にわだかまりのようなものがあったかもしれませんね。

アメリカ的精神をもつアダムズ、音の密度が濃いグバイドゥーリナ

__渡米されてミネアポリスの音楽大学を経由し、ニューヨークのジュリアード音楽院へ籍を移されます。
 十二音技法を本格的に学びたかったのですけれど、アメリカではさほど興味を抱かれていなかったのか、ジュリアードでは教えてくれる先生が誰もいませんでした。これには失望しまして、講義も半分くらいは出なかったと記憶しています。それでも空いた時間にニューヨークの街を歩いていると、前衛アートを展示している画廊がたくさんあり、音楽以外の最先端文化をたくさん吸収できたのです。まさに街が私の先生でした。そうした失望と期待を感じていた頃に出会ったのがケージの音楽でしたから、ずっとヨーロッパの音楽を追い続けていた私にとっては本当にショックでしたし、面白かったのですぐに飛びついたのです。ケージは1949年にコロンビア大学で禅宗の大家である鈴木大拙の講義を聴講していて、音楽も西洋的な考え方から脱却していましたから、その影響はさまざまなところに現れていたのでしょう。私はそうした日本的・東洋的な精神を、ケージから学んだような気さえしているのです。

__今回演奏されるジョン・アダムズやソフィア・グバイドゥーリナの音楽には、どういった印象をおもちでしょうか。
 アダムズは直接会ったこともありますし、とても穏やかな人だという印象が強く、作品は一作一作どれも質が高い。サクソフォンやシンセサイザーを取り入れるなど、実にアメリカ的な精神を感じさせる作曲家です。グバイドゥーリナにはまだお目にかかったことがありませんけれど、彼女の作品は音の密度が濃く、冒険も情熱も感じられ、とても力がある音楽を書く作曲家ですね。今回演奏される〈ペスト流行時の酒宴〉はまず曲名で興味を惹かれますし、他の作品同様にメッセージ性もあるでしょう。彼女もソビエトで生活していた時代は抑圧されて好きな音楽を書けず、映画や演劇の音楽を作ったようですが、その経験は無駄になっていないでしょうし、むしろ生かされているのではないかと思います。私も実は一時期、アルベール・カミュの『ペスト』という小説をオペラにしようと思ったこともありましたので親近感をおぼえますし、彼女の作品を聴けるのが楽しみです。

__貴重なお話をうかがえました。ありがとうございました。