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音楽評論家の澤谷夏樹さんに、9月5日(木)《第641回定期演奏会》で日本初演するスルンカのチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」について、特徴や聴きどころなどをご寄稿いただきました。

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チェンバロ協奏曲の「終着駅」– スルンカの作品世界 澤谷夏樹

ゆで卵カッター? プラ下敷き? 張り手に肘打ちに図形楽譜!?
奇想天外な音楽の先にある、大真面目な「スタンドスティル(最終地点)」とは

◆チェンバロ協奏曲は1717年生まれ
 
  ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)は、フランスの音楽家ルイ・マルシャン(1669〜1732)との“鍵盤試合”に備え、とっておきの「切り札」を用意していた。マルシャンが逃げ出したことにより、1717年の試合そのものは立ち消えになるも、その「切り札」はかろうじて生き残る。バッハがこの作品を改訂し、1721年、第5番として《ブランデンブルク協奏曲》に組み入れたからだ。
 チェンバロ協奏曲、もっと言うと鍵盤楽器のための協奏曲は、“鍵盤試合”をきっかけにバッハが生み出した、新しいジャンルだった。その後、ヘンデルやバッハの息子たち、ハイドンらが同ジャンルに作品を残す。モーツァルトのころになるとピアノ協奏曲が優勢になることは、ご案内の通り。
 チェンバロ協奏曲が息を吹き返すのは20世紀の初め、いわゆるモダン・チェンバロ(金属フレームに撥弦機構を搭載したキメラ楽器)の発明によるところが大きい。その音色を聴き、同時代の作曲家、たとえばファリャやミヨー、プーランクらが競って作品を残した。
 楽器としてのチェンバロは、20世紀後半の古楽運動と軌を一つにして、18世紀以前の姿を取り戻す。博物館などに残るオリジナル楽器に範をとり、製作を試みるチェンバロ・ビルダーが登場した。この復元楽器は、必ずしもモダン・オーケストラと相性が良いわけではないので、両者を協奏させる作品は今日、20世紀の初めほどは世に出ていない。

◆スルンカとオペラ〈南極〉
 
 そんな状況の中、ミロスラフ・スルンカ(1975〜)が2022年、チェンバロ協奏曲を書き上げた。その次第を見る前に、この作曲家について少し“探り”を入れておこう。2004年ごろから創作活動を本格化させたスルンカは、2016年に書いた歌劇〈南極〉で、世界にその名を轟かせる。
 〈南極〉は仕掛けの利いたオペラだ。歌劇はアムンゼンとスコットの南極先着競争を描き出す。ステージではノルウェー隊とイギリス隊の言行が同時進行する。小説であれば、順次、両者に触れることはできるが、場面を同時に描くことはできない。絵画であれば、ある一瞬を同時に描き出すことはできるが、場面を進行させられない。音楽であれば、両者を同時進行させた上で、反目させたり調和させたりすることができる。

BW_KIK03454_mid-res-c-Kaupo-Kikkas-452x678.jpg◆チェンバロの秘める「時間性」

 スルンカは、こうした音楽の特殊な「時間性」につねに着目してきた。その目をチェンバロにも向ける。チェンバロにおいては「音の高さと長さが前面に出る」。「その響きは音色と音量の点で、いかなる変化も実現できない」。「チェンバロの発音機構は0か1かでデジタル的である」。作曲家はこう考えた。
 ギターのように弦をはじいて発音するチェンバロは、音の減衰が速い(音を保続する時間が短い)。鍵盤を強く押そうが優しく撫でようが、音量や音色は変化しない(音量・音色の漸次変化は可能だが、ピアノとは実現方法が違う)。だから作曲家の言う通り、「音の高さと長さ」が剥き出しで表に出る。
 スルンカは協奏曲の独奏楽器として、二段の手鍵盤を備えたチェンバロを指定している。この手の楽器はふつう、独立した3セットの弦列、つまり記譜通りの音高のセットを2列と、記譜よりもオクターヴ高いセットを1列持つ。
 それらを二段の鍵盤と連動させたりさせなかったりすることで、使用する弦列の組み合わせを変え、さまざまな音色を出すことができる(さらに言うと、弦列と鍵盤の連動をすべて解けば、鍵盤をいくら操作しても弦の音はしない。鍵盤の上下する動作音がするのみ)。鍵盤も弦列も独立しているので、仮に両手で同じ音域を弾いたとしても、左右の手を上下の鍵盤に分けて置いていれば、指をぶつけることもないし、旋律を歯抜けにすることもない。つまり、〈南極〉で作曲家が試みた「同時進行」を、チェンバロならば突き詰めることができる。

◆作曲家のアイデアと意図

 そこでスルンカは、チェンバロとオーケストラの各楽器を、音の保続時間の長短で整理しなおすことにした。チェンバロやパーカッションは短い音を出す。管楽器やピアノはそれよりは長い音(と短い音)を出せるだろう。弦楽器やアコーディオンは、管楽器と違って肺活量の制限がないから、音を延々と引き伸ばすことができる(し、短い音とそれよりは長い音も出せる)。

 このように楽器編成を「音の保続時間の長短で整理」し、音楽制作の柱とするアイデアは、必ずしも珍しいものではない。シュトックハウゼンは1977年の雅楽曲〈リヒト – 歴年〉で、「1977年」の一十百千の各位と、雅楽器各パートの音の保続時間とを結びつけた。一の位には楽箏や琵琶(いずれも撥弦楽器)、十の位には篳篥(息が短い)、百の位には龍笛(篳篥よりは息が長い)、千の位には笙(吹いても吸っても音が出る)といった具合に。
 雅楽には雅楽の楽器の扱いがある。シュトックハウゼンはその歴史や慣習を、なにくわぬ顔で打ち破ってしまった(だから当時、反発が大きかった)。スルンカもまた、チェンバロの歴史的・慣習的な扱いを超え出ることを、ひとつの目標にしているようにも見える。「スタンドスティル」(「停止」「行き詰まり」の意)なる副題には、そんなチェンバロの「行き詰まり=最終地点」を示そうとする、作曲家の並々ならぬ意欲が感じられる。
 事実、協奏曲の最終局面でチェンバロは、機構上の“極北”に到達してしまう。その様子については、演奏会場で実際に“聴いて”いただきたい。それは、チェンバロ奏者にとっても、私たち聴き手にとっても、ひとつの“おかしな体験”となるはずだ。

◆さまざまな工夫

 アイデア自体は興味深いが、それだけで作品全体ができるほど、音楽制作は甘くない(と愚考する)。そこで作曲家はさまざまな工夫を凝らす。上行音型と下行音型との相剋で音楽を前に進めるのもそうだ。不確定の楽譜(五線を基礎に置いた図形楽譜)を導入するのもひとつの手。張り手や肘打ちのようなチェンバロ奏法もある。特殊な(いや、むしろ日常的な)楽器を使うこともサウンドに弾力を与える。「ゆで卵カッター」や「プラスチック下敷き」が舞台上に見え隠れするのだ。どんな音かは聴いてのお楽しみとしよう。